ぼーしやJAM工房

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ぶどうの話(二人のてき弾兵と言う名のジャム)

ぶどうのジャムを作り始めたきっかけにはちょっと面白い話でした。
最初に僕にぶどうのジャムを作らないかと言ってくれたのは、野尻湖畔にサマーハウスを持つ柏倉さんでした。米沢の知人から沢山のぶどうを貰ったからと言うのです。早速そのぶどうをジャムにしてみるとこれがとても美味しいのです。直に柏倉さんにお持ちしました。柏倉さんもとても喜んでくれました。

このぶどうが柏倉さんの所に来るようになったのはこんな話です。

柏倉さんは第2次世界大戦末期九州で特攻隊に所属していました。彼は毎日毎日周りの戦友が飛び立っていく姿を見送りながら、自分に来る特攻の指令を待っていたそうです。
ある日、敗戦と言う報が隊に届きました。知らせが届いて直に連合軍によりすべての飛行機の飛行禁止が言い渡され日本の飛行機は飛べなくなりました。それでも残った飛行機で特攻に行く人が何人もいたそうです。しかし柏倉さんは一機の飛行機に乗り家族の元に帰ることに決めたのです。柏倉さんは日本上空が飛行禁止になっている事から山沿いに低空飛行を続けて北に向かいました。長い長い時間を操縦かんを握り山腹すれすれをとびながら思わず口ずさんだメロディーはシューマンの「二人のてき弾兵」だったそうです。
休むことも無く飛び続けました。しかしとうとう燃料が無くなってしまいました。柏倉さんはどこか着陸できないかと目を凝らしていたそうです。そこに飛行場らしい所を発見しました。それが米沢だったんです。”二人のてき弾兵”を口ずさみながら着陸しました。そして飛行機を降りると米沢の駅に向かいました。汽車に乗る前に飛行機に戻るとすでに部品が盗まれていてとても飛べる状態ではなかったそうです。
米沢には以前飛行場は無かったそうですが、敗戦直前、軍からの命令で急遽突貫工事で飛行場を作ったのだそうです。そしてできた途端に戦争が終わってしまいました。米沢の人々は「アメリカのために飛行場を作ってしまった。」とため息をついていたら、空から一機の飛行機が降りてきたそうです。それも日の丸を付けた日本の飛行機でした。皆それを見て喜んだそうです。少なくとも最初の飛行機は日本の飛行機だったんですから。ぶどう畑からそれを見ていた若い娘もいました。
敗戦から50年ほども経って米沢であの時の飛行機のパイロットは誰かと話題になり柏倉さんを探し当て、柏倉さんを囲むパーティーが開かれました。その席で一人のおばあさんがぶどうを持って柏倉さん会いに来ました。あなたが飛行機で空から降りてくるのを見ていた、その時若い娘だった自分はやはりこのぶどうを世話していた、あの時と同じぶどうだと言って沢山のぶどうを手渡して行きました。
そのぶどうが柏倉さんから僕の所に来てジャムになったわけです。このぶどうは米沢に昔からあるぶどうだそうで、品種は判らないという事でした。それからこのぶどうのジャム作りをしていたのですが、日本がアメリカのイラク攻撃を支持し自衛隊をイラクに送った年に台風に叩かれて枯れてしまいました。
あれは何だか平和のしるしの様な葡萄だったのかも知れないと、その時思いました。
柏倉さんの希望でぶどうジャムのもうひとつの名前は”二人のてき弾兵のジャム”です。


葡萄の栽培は6-8000年前の中東にまでさかのぼります。最初のワインはBCE6000年のアルメニアだそうです。日本には鎌倉時代に中国から入ってきた物の栽培が始まっています。日本の自生種は山ぶどうです。15種類のやまぶどうが確認されているそうです。葡萄の歴史は長いですね。

その後しばらく葡萄ジャムは作らなかったのですが、今僕が作っている葡萄ジャムは松本の村山さんが育てるブラッククウィーンという赤ワイン用の葡萄です。甘みと酸味のバランスがとても良くてとても気に入っています。村山さんの畑に毎年ぶどうを摘みに行くのですがとても気持ちの良い畑です。

二人のてき弾兵のメロデイーは聞こえなくなりましたが ぼーしやJAM工房の新しいぶどうジャムができました。

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