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自然そのまま手作りジャム

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〒389-1303 長野県上水内郡信濃町野尻2967-5

ジャムと果物のお話しSTORY

★ジャムとくだものの話はでもご案内しております。

ジャムと果物のお話しをさせて頂きます。お時間のある時にお気軽にお読み下さい。


ジャムと果物のお話し INDEX


ルバーブの話

ルバーブの画像僕がジャムを作り始めたきっかけはルバーブに出会ったからです。
ルバーブがあったからジャム屋になったんですね。

今から35年ほど前になるでしょうか、国際村のメンバーの方に教えていただいたのです。誰に教えていただいたのだったかもう忘れてしまったけれど、どんな料理に使うとか調理の仕方だとか随分親切に、とても楽しく教えていただいた事を覚えています。それで”ぼーしや”ではケーキやクッキーの試作を母が父と僕はジャムを試作しました。
当時軽井沢で父はひょんなことで知り合った(フランス文学の研究者で日本のフランス料理を育てた)山本直文氏と懇意にしていていました。

こんな食の大家に味見をしていただくなどおこがましかったのですが何度か父は軽井沢に足を運びルバーブ.ジャムの味の合格点を山本直文さんに頂きました。これがぼーしやJAM工房のジャム作りの始まりです。
その当時は日本でルバーブJAMを作っている所は無かったので、どころかほとんど誰もルバーブを知らなかったので 味見本をもって各地を歩きましたが人々の反応はまさに様様な物でした。父と苦笑するようなこともありました。

ルバーブは南シベリヤが原産です。ただ薬としては同じ仲間のダイオウが5000年以上前から中国で薬として使われています。ヨーロッパへ渡っても長くは薬として使われたようですが食用としては17世紀にイギリスでの記録が残っています。

日本でルバーブの話題が頻繁に本に出るようになったのはここ15年ほどではないでしょうか。その前に大田愛人さん「辺境の食卓」の中に出てくるルバーブが話題になった事がありました。僕がジャムを始めたころです。

いつ日本でルバーブの栽培が始まったかです。
今まではA. ストーン さん(カナダ人宣教師、農業改良、古間鎌の製造の近代化などに貢献し洞爺丸事故で亡くなった)がカナダからスウィート.コーンなどと一緒に野尻湖畔に持ってきたのが始まりと言われていましたが、それ以前野尻湖協会を開村して1921年にアメリカから種を移入したとの記録が残っていました。
そして野尻国際村を開村した当時の村長さんのHomer Grafton氏が平塚さんへ栽培を委託したという事です。
さらに調べて行くと宮城県七ヶ浜高山の外国人村に明治23年.1890年にアメリカからルバーブの種が入っている記録が見つかりました。どうもこれがルバーブ栽培の始まりのようです。
それら以外にも国際村は軽井沢(明治21年開村)または明治の大使館関係者は日光に別荘を作ったと言う記録があるので、そういう所に個人的に家庭用としてルバーブが育てられていたかも知れませんが、今の所僕の知らべた範囲ではそれらの記録には残っていませんでした。

野尻湖畔は2番目のスタートでしたがここからルバーブが日本に広がっていったのは確かなように思います。
ルバーブに惚れてジャム屋になった僕は、そんな歴史的な意味も含まってこの土地でルバーブのジャムを作って行ける喜びを感じています。


ブルーベリーの話

ブルーベリーの画像信濃町のブルーベリーは、伊藤ブルーベリー農園に始まりました。
僕がその話を聞いたのは、三十数年前の事です。
すごい農家が近所に住んでいるんだと知り、すぐに伊藤さんに会いに行きました。伊藤さんは僕を快く家に招きいれてくれてブルーベリーの話を聞かせてくれました。並々ならぬブルーベリーへの情熱が伝わってきました。それが僕のブルーベリーとの出会いです。

ブルーベリーのジャムを作り始めて以来、伊藤さんには沢山のことを習いました。
「ブルーベリーはこんな実なのだ。」
「こんな植物なんだ」
「こんな味なんだ。」
「色」
「香り」
ルバーブで山本直文先生に言われたこととそのまま同じ事を、農家の伊藤さんに言われたわけです。

それにしてもブルーベリーのジャム作りは難しかったです。
直にジャム様になる実なのですが、気に入った、おいしいジャムを作れるようになるにはなかなか時間がかかりました。

ブルーベリーはツツジ科の植物で北米が原産の植物です。最近は抗酸化作用などで味以外の話題も盛んです。
日本にも同じ科でブルーベリーの仲間の自生種に.黒豆の木があります。”アサマブドウ”または”アサマベリー”の名前でずいぶん以前から軽井沢で知られ、主にジャムとして食用にされています。 
日本ではいつから栽培が始まったのでしょう。
記録によると1951年に北海道農事試験場にアメリカからブルーベリーの苗が来ています。さらに1964年に岩垣教授が福島農事試験場から東京農工大にブルーベリーの苗を移しで栽培を始めています。(岩垣教授はブルーベリーの父と言われるそうです)1968年に東京.小平の農園でラビットアイ系のブルーベリーの栽培が始まっています。そして1970年には信濃町の伊藤ブルーベリー農園でハイブシュ系ブルーベリーが農業として栽培され始めました。本格的に農業としてブルベリーが栽培されたのはこの伊藤さんからでしょう。信濃町のある伊藤ブルーベリー農園が日本のブルベリー栽培に大きく貢献したことはいうまでもありません。

数年前に、”ブルーベリー大図鑑”の著者渡辺順次さんと伊藤ブルーベリーの伊藤さんの依頼でブルーベリーを単品種ごとにジャムにしてみました。この二人にブルーベリー栽培の指導をされている小池先生を含めて随分話が弾みました ブルーベリーの将来はまだまだ広がりそうです。

ブルーベリーの実を両手に乗せて見ると一つ一つのが輝いています。
まるで夏の太陽と自然の緑が結晶したかのようです。

沢山のブルーベリーの美しさに魅せられてしまった人々に知り合いました。
魅せられた一人として僕もこの一粒一粒の青い結晶を大切にしたジャム作りをし続けるようがんばります。


ぶどうの話(二人のてき弾兵と言う名のジャム)

ぶどうの画像ぶどうのジャムを作り始めたきっかけにはちょっと面白い話でした。
最初に僕にぶどうのジャムを作らないかと言ってくれたのは、野尻湖畔にサマーハウスを持つ柏倉さんでした。米沢の知人から沢山のぶどうを貰ったからと言うのです。早速そのぶどうをジャムにしてみるとこれがとても美味しいのです。直に柏倉さんにお持ちしました。柏倉さんもとても喜んでくれました。

このぶどうが柏倉さんの所に来るようになったのはこんな話です。

柏倉さんは第2次世界大戦末期九州で特攻隊に所属していました。彼は毎日毎日周りの戦友が飛び立っていく姿を見送りながら、自分に来る特攻の指令を待っていたそうです。
ある日、敗戦と言う報が隊に届きました。知らせが届いて直に連合軍によりすべての飛行機の飛行禁止が言い渡され日本の飛行機は飛べなくなりました。それでも残った飛行機で特攻に行く人が何人もいたそうです。しかし柏倉さんは一機の飛行機に乗り家族の元に帰ることに決めたのです。柏倉さんは日本上空が飛行禁止になっている事から山沿いに低空飛行を続けて北に向かいました。長い長い時間を操縦かんを握り山腹すれすれをとびながら思わず口ずさんだメロディーはシューマンの「二人のてき弾兵」だったそうです。
休むことも無く飛び続けました。しかしとうとう燃料が無くなってしまいました。柏倉さんはどこか着陸できないかと目を凝らしていたそうです。そこに飛行場らしい所を発見しました。それが米沢だったんです。”二人のてき弾兵”を口ずさみながら着陸しました。そして飛行機を降りると米沢の駅に向かいました。汽車に乗る前に飛行機に戻るとすでに部品が盗まれていてとても飛べる状態ではなかったそうです。
米沢には以前飛行場は無かったそうですが、敗戦直前、軍からの命令で急遽突貫工事で飛行場を作ったのだそうです。そしてできた途端に戦争が終わってしまいました。米沢の人々は「アメリカのために飛行場を作ってしまった。」とため息をついていたら、空から一機の飛行機が降りてきたそうです。それも日の丸を付けた日本の飛行機でした。皆それを見て喜んだそうです。少なくとも最初の飛行機は日本の飛行機だったんですから。ぶどう畑からそれを見ていた若い娘もいました。
敗戦から50年ほども経って米沢であの時の飛行機のパイロットは誰かと話題になり柏倉さんを探し当て、柏倉さんを囲むパーティーが開かれました。その席で一人のおばあさんがぶどうを持って柏倉さん会いに来ました。あなたが飛行機で空から降りてくるのを見ていた、その時若い娘だった自分はやはりこのぶどうを世話していた、あの時と同じぶどうだと言って沢山のぶどうを手渡して行きました。
そのぶどうが柏倉さんから僕の所に来てジャムになったわけです。このぶどうは米沢に昔からあるぶどうだそうで、品種は判らないという事でした。それからこのぶどうのジャム作りをしていたのですが、日本がアメリカのイラク攻撃を支持し自衛隊をイラクに送った年に台風に叩かれて枯れてしまいました。
あれは何だか平和のしるしの様な葡萄だったのかも知れないと、その時思いました。
柏倉さんの希望でぶどうジャムのもうひとつの名前は”二人のてき弾兵のジャム”です。


葡萄の栽培は6−8000年前の中東にまでさかのぼります。最初のワインはBCE6000年のアルメニアだそうです。日本には鎌倉時代に中国から入ってきた物の栽培が始まっています。日本の自生種は山ぶどうです。15種類のやまぶどうが確認されているそうです。葡萄の歴史は長いですね。

その後しばらく葡萄ジャムは作らなかったのですが、今僕が作っている葡萄ジャムは松本の村山さんが育てるブラッククウィーンという赤ワイン用の葡萄です。甘みと酸味のバランスがとても良くてとても気に入っています。村山さんの畑に毎年ぶどうを摘みに行くのですがとても気持ちの良い畑です。

二人のてき弾兵のメロデイーは聞こえなくなりましたが ぼーしやJAM工房の新しいぶどうジャムができました。


りんごの話

りんごの画像僕がリンゴジャムを作り始めたのは、紅玉リンゴを見つける事ができた1980年頃です。
そのころはリンゴは甘い種類が主で紅玉のような酸味のある古い種類のリンゴはどんどん無くなっていました。
このリンゴの産地の北信州でさえ無くなっていたのですから日本中でかなりへってしまったのですね。
紅玉リンゴを探して友人の友人と訪ね歩きようやく長野市、当時は豊野町の柳沢リンゴ園と知り合いました。
これからが僕のリンゴジャム作りの始まりです。

リンゴ作りを始め頃、しばらくの間リンゴの農家で働くことができました。
リンゴの花摘みから始まって撤実(中心のみを残して周りの小さな実を除く作業)の作業をしながら、農家の方にリンゴの木の話、虫や鳥の話などいろいろ聴くことができました。
この経験はジャム作りに僕なりのイメージを作るきっかけになったような気がします。

リンゴと人とは長い歴史がありますね。
アダムとイブの話にも出てきますし、ギリシャ神話の中で美女にささげるリンゴの話、ウイリアムテルのリンゴ、アレキサンダー大王がカザフスタンから持ってきたと言う話もあります。
最古の物と思われるリンゴの足跡はトルコでは紀元前6000年のリンゴの化石が見つかったそうです。このときすでに人はリンゴを食べていたんですね。

それにしてもリンゴの栽培がヨーロッパで盛んになったのは16世紀の頃だそうです。
現在日本で皆さんが食べているのは明治以後入って来たヨーロッパ系のリンゴです。もちろん日本にもかなり昔からリンゴがありました。平安時代にはすでに中国から入って来たリンゴがあったことが記録されています。“和リンゴ”ト呼ばれた種類です。現在はほとんどそれらのりんごは食べられていません。しかし信濃町のお隣の飯綱町には“高坂リンゴ”として今も栽培されています.

現在世界にリンゴの種類は7000種以上あるのだそうです。
その中で栽培、消費量が一番多いのは“ふじ”です。世界で最も人気のあるのは日本の青森県で生まれた“ふじ”なんですね。僕が使っている紅玉は1800年頃にアメリカ.ニューヨーク州で生まれました。日本では1987年頃から栽培されています。

今紅玉リンゴを頂いているのは長野市の柳沢農園と飯綱町のアップルファームです。
どちらも使用農薬の量を極端に減らしてリンゴの木の生命力を活かした栽培をしています。リンゴ畑に行くと晴れた日など気持ちが良くて木にハンモックをかけて昼寝のをしたいほどです。ほんとにこの二軒の農家と知り合ってラッキーでした。彼らが話してくれる、自然のありようの話は僕たちが忘れかけてている人と自然との係わりの姿の話かもしれません。

そんなリンゴの話をしながら僕はリンゴジャムを作っています。
このリンゴジャムを食べて頂いた方々に“自然の息吹”が伝わることを願っています。 












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