なんていったって
逃げるにしかずヨ
「誰!来ちゃいけないよ! それ以上近ずくとぶつわよ」
ほら穴の中からすごいけんまくでどなられた。
ケン太郎は一瞬ギクッとしたが、それでもう一歩近ずこうとした。すると暗いほら穴の中で低いうなり声がした。今にも飛びかかってきそうだ。
「やばい」
ケン太郎は身をひるがえすと飛び上がって一目散に逃げだした。
かりにここに登場するホンドギツネ(イヌ科)の雄をケン太郎、その奥さんの雌ギツネをコン子と名付けよう。
ケン太郎とコン子は春も間近い冬のある日奥信濃の草原で出会った。まだ残雪は一メートルを越すほどだ。見渡す限り真っ白な世界だった。一眼見た時からケン太郎はコン子を忘れられなくなってしまった。この一面白い世界の中で、コン子を暖かく抱きしめて寒さから守ってやりたい。ケン太郎の思いはつのるばかりだ。やがてその思いがかない二匹のキツネは結婚した。二匹のキツネは手をとりあって白い世界を飛び回った。
俺はお父さんだぞ
キツネは一夫一婦で妊娠期間は五十日から六十日である。五月から六月頃、二匹から九匹の子供を産む。雌が子供を育て、雄はせっせとえさを運ぶ。そこまではいいのだが、雌は子供が動けるようになるまで雄を絶対に巣に近ずかせない。だからお父さんギツネは「かわいい子だね、ほーら高い高い‥‥‥」とはいかないのだ。
ケン太郎は広い草原を走りながら考えた。
「ちくしょうめ。俺はお父さんなんだぞ」
白樺や唐松の林を走りぬけた。白樺林と一緒に戸隠や飯綱、黒姫の山々がまるで夢のように流れていった。
ここはじっと辛抱
ケン太郎はじっと草かげに身をひそめていた。走りながら大空にどなってみても仕方がない。気分転換で晩ご飯の猟をすることにしたのだ。キツネは頭がいい。頭に草をのせからだを水に沈めてカモの群に近ずいたり、苦しそうに草原をころげまわりながら野うさぎに近ずいたりする。
でもきょうはそんな真似をすることはない。ただじっと辛抱強く待っていればいい。
「来た」
浮かび上がってきた鱒を眼にもとまらぬ早技ですくい上げた。次の瞬間もうケン太郎はその鱒を口にくわえていた。
コン子よろこべ
「コン子、今日の獲物はでかいぞ」
ケン太郎は時速七十キロの猛スピードでわが家に帰ってきた。ハアハア息をはずませながらそっと声をかけたが、返事がない
「コン子!」
「シッ!子供たちが寝てるから、あとにしてよ」
「でも‥‥‥」
「駄目」
ケン太郎はがっかりした。
「じゃここへ置いとくよ」
ケン太郎は巣の前の草原に鱒を置くととぼとぼと林へ入っていった。白樺の枝の先で数えきれないほどの星が輝いていた。ケン太郎はきょうも一人ぼっちで野宿だ。でも子供たちもすぐ大きくなる。
「もう少しの辛抱だよ」
ケン太郎は星空に向かって大きな声でいった。戸隠山の向うに流れ星が長い尾をひいて落ちていった。
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10メートル先を見ろ?
この一年ほど北信五岳地方のキツネの数がぐんとふえている。そこでキツネの生活ぶりを拝見することにした。
「あった。あった」
キツネは広々と見通しのいい場所が好きだ。草原の中にボコッと穴が掘ってあったり、草原と林の石の積み重なった所に巣を作ったりする。出入り口は三ヶ所か四ヶ所。これで全部かと思うと大違い。そこから十メートルほど離れたどこかにもう一つかくし穴がある。いざという時の逃げ道だ。キツネは普通時速五、六十キロで走るが、最高は七十二キロという記録がある。ある巣の前に五十センチ以上もある大きな鱒が置いてあった。時は五月。そこでこのキツネの物語の開幕という次第である。