ぼーしやの歴史


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ジャム屋なのになぜ「ぼーしや」?
ぼーしやJAM工房は1980年からかれこれ40年余り、北信濃の自然の素材を生かした手作りジャムを作っています。
さて・・・、ではなぜ名前が「ぼーしや」なのでしょうか?
これは人それぞれの個性を活かすための、
オーダーメイド、ハンドメイドにこだわった帽子作りから始まっています。


沿革


IKEMIYA

1953年
帽子製造販売

池宮和子が帽子デザイナーとして独立。
帽子のオーダーメイドを行う「IMEMIYA」を創業。
帽子のオーダーメイドをすべて手作りではじめる。

 

 
 

 

IKEMIYA

1954~1975年
帽子製造販売

東京都練馬区を拠点に帽子の注文生産をすべて手作りで行う。
手作りの帽子を関東周辺のリゾートホテルでの委託販売をはじめる。
服飾系専門学校で帽子制作の講師を務める。
独自の手作り帽子教室をはじめる。

 

 
 

 

IKEMIYA

1976年
帽子製造販売

長野県軽井沢町旧軽井沢に
手作り帽子の専門店「シャポー・エ・シャポー IKEMIYA」を夏季限定で出店。
避暑で軽井沢を訪れたお客様に手作りの帽子の販売と、
お客様のご要望に合わせたオーダーメイドを行う。

 

 
 

 

IKEMIYA

1977年
帽子製造販売

軽井沢観光ブーム本格化。
「五千円族」とも称された日帰り観光客の増加に伴い、
量産・量販メーカーが続々と軽井沢に出店、
オーダーメイドのお客様が減少傾向となる。

 

 
 

 

IKEMIYA

1978年
帽子製造販売

新たな出店先を検討、長野県を中心に調査を開始。
外人村を有し外国人避暑客が多く訪れる長野県信濃町野尻に着目。

 

 
 

 

IKEMIYA

1979年
帽子製造販売

長野県信濃町野尻に
手作り帽子の専門店「IKEMIYA」を出店、カフェを併設。

 

 
 

 

ぼーしや

1980年
帽子製造販売

拠点を東京都練馬区から長野県信濃町野尻に移転。
軽井沢や信濃町の皆様から「ぼーしや」として親しまれたことから、
店名を「ぼ-しや」に変更。

JAM工房

1980年
ジャム製造販売

信濃町の農家の方々とのお話しの中から、ルバーブジャムを試作。
好評を受けて池宮理久が「ルバ企画」を開店し、ルバーブジャムの販売を開始。
「ルバ企画」を「ぼーしやJAM工房」と改名。

ぼーしや

1981年
帽子製造販売

オーダーメイド、ハンドメイドの帽子製造販売。
手作り帽子教室の開催。
オリジナルパンやオリジナルケーキの製造販売。
併設しているカフェでの提供も行う。
軽井沢店を閉店。

JAM工房

1981年
ジャム製造販売

長野県信濃町本道に手作りジャムの工房を開設。
北信濃の果物を使った手作りジャムの製造・販売を開始。
長野県信濃町野尻の湖畔に、カフェを併設した湖畔店をオープン。

  • 野尻湖特産ブルーベリージャムの製造・販売を開始。
  • 野生の果物野尻湖ベリージャムの製造・販売を開始。

ぼーしや

1982~2018年
帽子製造販売

オーダーメイドの帽子製作とカフェを中心に営業。

JAM工房

1982~2018年
ジャム製造販売

多種多様な自然素材のジャムを製造
創森社[遊び尽くし]シリーズより「お手製ジャムはいかが」出版

ぼーしや

2019年
帽子製造販売

オーダーメイドの帽子製作とカフェを中心に営業。

JAM工房

2019年
ジャム製造販売

湖畔店を閉店。
HONDO羊小屋店をオープン。


アルバム



旧IKEMIYA 軽井沢店(1977年撮影)

お手製ジャムはいかが(1997年出版)

旧JAM工房 湖畔店(2013年撮影)

ジャム屋のはじまり


(1) はじめての手作りジャム

もう随分前 僕は一人で沖縄県の鳩間島に住んでいた。
沖縄本島から遠く離れた 小さな美しい島だった。
青い海が島に向かって何色にも変化し 島は白い砂浜に囲まれていた。

そして家々の赤い屋根が緑の間に見えている。
島に車は無く 道は芝生だった。
そこはまさに楽園と言える島だったのだと今も思う。

その時 借りていたのは沖縄の昔ながらの家で今風に言えば古民家だった。
その家の庭に 大きな桑の木があった。
蚕を飼っていたために必要だったのかそれとも山羊の大好物だから植えたのだったのかも知れない。
ともかくその桑にはたくさんの実がついた。
夏前に実をつける 台風の時に台風の風に飛ばされて来た塩の為に 桑の木は木の葉を全て落としてしまう。
後に また新しい葉を出すとまた花を咲かして実をつけた。
僕は友人と近所の子供とその木に登ってカナブンをどけながら実をつんだ。
バケツに3つの桑の実を収穫したと思う。
生でたくさんの実をほうばった、しかしさすがにとても食べきれずに 僕は残った物をジャムにした。
桑のジャムは甘くて 美味しかった。
友人は それからパイを焼いてくれた。
島での暮らしの食事は 漁など海からの頂き物が中心でそこに畑の収穫物が混じる程度の 自然な素朴な暮らしだったのでパイは久しぶりの都会的な香りがした。
大きな木の下の自前のゴツいだけが取り柄のテーブルで海から拾ってきた流木で作ったイスに座って 友人とその子供達との 桑のパイとインスタントコーヒーを楽しんだ。
それは何とも美味しかった。
今でもそれが 一つのジャムのイメージとして残っている。
これが僕が作った 最初のジャムだったと思う。

(2) ぼーしやの名前

ぼーしやJAM工房のぼーしやという名前は 母が帽子のデザイナーであるところから来ている。
母が帽子を作り始めたのは 占領軍が 日本を闊歩していた頃だ。
昭和23年に帝国ホテルを中心に活動していた帽子のデザイナーのアトリエで帽子作りを始めている、母が20の頃だと思う。
顧客はアメリカ人など 占領軍関係者が多かったそうだ。
アトリエは東邦レーヨンビルの最上階にあって 部屋を帽子デザイナーと洋服デザイナーとで二つに分けて使っていたのだと話してくれた。
昭和28年 帽子デザイナーとして独立した後昭和47年に軽井沢に帽子店「シャポー・エ・シャポー IKEMIYA」を開店。
軽井沢にオリジナル帽子は母の店だけだった。
その頃の軽井沢の店番をしていると ジョン・レノンとオノ・ヨーコ がよく自転車で行くのを目にした。
ジョンの自転車の前の部分に小さな子供が乗っていたのを覚えている。
いつの頃からか 軽井沢に来る女性達が 雑誌を脇に抱えている様になっていった。
そして急激に客層が変化していくと オリジナルな帽子よりも 雑誌に載った物の方が売れる時代になっていった。
ある時、店に来たお客さんに進められたのがきっかけになって野尻湖に店をという事に なった。
その野尻湖店開店当時「シャポー・エ・シャポー IKEMIYA」は軽井沢や信濃町のでは、いつしか「ぼーしや」と親しまれるようになっていた。
そおして「シャポー・エ・シャポー IKEMIYA」が「ぼーしや」になったわけだ。
ここに帽子の注文ができる、帽子の作り方が習える、そしてオリジナルのパンやケーキが楽しめる喫茶レストラン「ぼーしや」が生まれた。
「ぼーしや」を開店して翌年。
野尻湖畔にある国際村という別荘地のお客さんにルバーブを 紹介される、ルバーブには 父も母も夢中になった。
僕達は ルバーブを研究した、文 献を調べた、ジャムの試作を何度も作った。
その頃ルバーブのジャムを販売している店は日本にはまだ無かったので 試作したジャ ムを 父が軽井沢で知り合ったフランス料理の 研究者の山本直文さんに相談した。
彼が 上手いと言ってくれるまで 父は何度か軽井沢 へ出かけて行った。
彼等は会って コーヒーを楽しみ 話しに花を咲かすのだったろう。
父はよく笑って話してくれた。 ルバーブを持ってジャム屋を始めてから父は新聞、雑誌の発行なども 考えていた為 名前を「ルバ企画」としてスタートする。父の雑誌は「森からの手紙」と 題してスタートだった。自然と人そして歴史に話題を求めて発刊した。残念ながら2号 までしか発行できなかったが 柔らかな文章は 人気があった。
何年かして ジャムの種類も増えた頃「ぼーしや」からの流れとして 名前を「ぼーしやJAM 工房」と改名した。
今 ジャムのビンにキレがかかっているが これはジャムが帽子を被っているのだ。
ジャ ムと帽子の関係にはこんな物語があった。

(3) 食品ってなんだろ?

食べるってど言う事だろうとよく考えてみる。
自分を作っているのは 食べ物ですよと誰かが言っていた。
確かにそうだ。
考え方とか感じる事は 勉強や体験などから身につけて来るけれど 身体を作っていくのは 食べ物ではないか。
僕の身体の一つ一つの細胞に栄養を補給して成長させてくれているのは 僕が食べている食べ物なのだ。
スーパーやお土産店でジャムを見ていると 多くの疑問、何で というような事が頭をよぎる。
これだけ良い果物が周りにあるのに ジャムの中味は 海外産か。何千キロも向こうから持って来たんだ。
どうして 香辛料が入っているんだろう。果物にはそれぞれ香りも味もあるけれど。水飴って なんだろう。
薬や食べ物とは思えない名前が 原材料欄にわんさかと書かれている。
多分何十年か前はその様な食べ物に属するものはこの世には無かっただろう。
これって僕達の身体にとっていい事なのか 悪い事なのか はたまたどうでも良い事なのか?
この果物を育てた人は 自分の育てた果物がこの様な形になって さぞ驚いている事だろ。
それにしても どこの誰がどんな環境で育てたのだろう?
信州の北に位置するこの町の 環境は素晴らしい。
北国街道でも難所で有るここは 深い山々と大きな森そして多くの湧き水、湖と沢 深い雪に閉ざされる冬この中で育ったのにそれを 果物や野菜がその事を食べる人々に語りかける 事ができているだろうか?
食べるってどう言う事なんだろう。
食べる事で今まで外の世界で生きていた物を 僕の一部にするための行為。
まあ 考え始めるとキリがない。
だけれど 考えてみると面白い。
そんなジャムを作りたい。


ぼーしやJAM工房から ご提案


ぼーしやJAM工房は仕事の仲間を探しています。
パンやさん、レストラン、cafe、その他いろいろの方と一緒に新しい形の物を模索して作っていけるのではないかと思っています。
ぼーしやJAM工房は40年近く信州の果物の産地で果物と仕事をしています。
手作りで 添加物を混ぜずに 果物の自然な個性を活かして。
そんな僕達の蓄えた知識やアイデアを活かすための技術などを使って 一緒に仕事をしてみませんか!
長年、地域の自然環境の問題にも取り組んでいます。
そんな事も意見を共有できると良いですね。
ご連絡をお待ちしています。